|
1 製造業は地域産業として発展
日本の製造業は、日本各地で地域産業として発展した。地域産業は、それぞれ300年近い歴史を持ち、多様な起業家の活躍によって形成された。製造品出荷額の県別ランキングは@愛知A神奈川B静岡である。愛知県の名古屋周辺には18世紀から、農業、農業機具、繊維等の産業が栄え、現在では日本における自動車を始めとする機械産業の中心地に成長した。神奈川県の製造業は1930年以降に発展した軍需産業によって基礎が築かれた。
地域産業の成長プロセスの例として、静岡県の西部(浜松市周辺)を取り上げよう。そこでは、18世紀後半に綿花が生産され、綿糸と綿織物産業が発達し、19世紀後半になると、自動織機の産地になり、軽工業地域から機械工業地域に変わった。その後の展開は、次のように要約できる。
1,多くの自動織機メーカーから、豊田(トヨタ)、鈴木(スズキ)が成長し、20世紀初め、自主技術によって自動車の生産を開始し、自動車メーカーになった。
2,19世紀後半楽器産業も成長した。浜松の小学校に輸入オルガンがあった。時計職人だった山葉(ヤマハ)寅楠はその修理を頼まれた。彼はオルガンのメカニズムを知り、間もなく生産に着手した。周辺では織機工業が発達し、鋳鍛造の工場が多かったので、ピアノの生産も始めた。間もなく、巨大な楽器メーカーに成長した。ヤマハで技術者の河合小市が設立したカワイも、ヤマハと並ぶ楽器メーカーに成長した。
3、第2次大戦直後から、オートバイ生産が始まった。戦争中には浜松の企業は軍需生産に転換し、敗戦の時には、大量の工作機械や技能者が残された。40社近い企業がそれを利用してオートバイを生産した。その中で、ホンダ、スズキ、ヤマハが勝ち残り、1960年代に入る頃には、浜松は世界最大のオートバイ産地になった。
4, 1960年代後半、モータリゼーションが発生すると、ホンダ、スズキは小型自動車の生産を始めた。またヤマハはオートバイ部門を別会社にして(ヤマハ発動機)、船外機、スノーモビル、ヨット、プールなどを多角的に生産した。ヤマハは世界でトップクラスの船外機やスノー・モービルメーカーになった、
5、1920年代に浜松で電子技術の研究が進み、高柳健次郎博士(浜松高等工業学校教授)がテレビを開発した。敗戦後、高柳門下生が、学校内に誘蛾灯や蛍光灯を生産する企業を設立し、それが、日本を代表する光産業の企業・浜松ホトニクスに発展した。またヤマハは早くから電子技術を取り入れ、1960年代から楽器の電子化に着手し、電子楽器の世界的企業に発展した。
6、繊維企業は転換を繰り返した。一例を挙げよう。帝国製帽(テイボー)は1920年代にフェルト帽子の専門企業になり、第2次大戦中には兵隊のゲートルを造り、1950年代からフェルト技術を利用して、マジックペン、蛍光ペンなどを生産し、その分野では、世界のトップ・メーカーになった。
7, 多様な部品メーカーが成長した。自動車産業が拡大すると、部品メーカーが次々に設立された。起業者の多くは大企業からスピンアウトした人であり、資金は友人や親戚から集めた。販売先は飛び出した大企業である。大企業は、高品質の部品を安く調達するため、スピンアウトした人が設立した企業に対して、技術を支援した。静岡県内には、約1,500社の優れた自動車部品メーカーがある。
スズキは、本社工場から時間距離で約1時間30分以内に、主要な部品メーカーが立地しており、必要な都度、この部品メーカーと技術的な摺り合わせを行っている。弱小企業だったスズキが成長できたのは、部品メーカーとの技術的関係が緊密だったためだ。
以上述べたように、地域産業は自生的に発生し、成長した。大学との技術交流は例外的だった。
2 大学への期待が強まる
日本各地の地域産業の多くは、1990年代以降、東アジアとの競争に敗れ、工場の海外移転か、廃業かという選択を迫られた。機械産業(例えば自動車産業)における大企業が工場を海外移転すると、多数の部品企業は販路を失うので海外移転せざるをえなかった。こうして、アセンブルメーカーを頂点としてその傘下に膨大な部品メーカー、加工メーカーが収まるといった整然とした日本的生産システムが崩れた。大企業は優れた工学部卒業者や大学院の修士課程修了者を集め、大規模な研究所を設け、新製品を開発している。
しかし、大部分の中小企業は、特殊な分野では優れた技能を蓄積しているが、新製品の開発力を欠いている。そのため、大学の協力が必要だと感ずる企業が増えた。
ところで、日本の大学は第2次大戦後、長い間、産学協同を拒否した。その理由は、まず戦争中に軍部に協力したという反省であり、もう1つは、学問は真理の追究であって、実用と結び付くと堕落するという思想が強かったからだ。
しかし、1990年代には、日本の製造業の力が低下し、一方でIT、バイオ等、新技術が目覚ましい進歩を遂げた。政府は中小企業が生き残るためには、大学から新技術を吸収する必要があると考えた。また大学では、研究予算が削減されたので、新しい収入源として、技術の販売を始めた。こうして、2000年代に入る頃から、大学の研究成果を企業へスムースに移転する方法が検討された。現在、次の4つの方法がある。
|
@、大学内に専門機関を設ける。 政府は1998年に大学から企業への技術移転を促進するため、大学に技術移転機関(TLO)を作るように指導し、財政的に支援した。この機関は大学の研究者の特許を管理し、それを企業に売って利益を上げ、その利益を研究開発費に充てるという仕組みである。 TLOの中で、黒字経営を続けているのは東京大学TLOである。取り扱いの特許件数は1,400件を超え、多くのライセンシング契約に成功している。その最大の理由は、TLOの経営者や職員は、民間企業から引き抜かれた人ばかりであり、学者がいないことだ。経営者と職員はマーケティングの重要性を熟知し、企業を丹念に調べて、東京大学の技術の販売可能性を調べ、頻繁に企業に出掛けてセールスしている。
A地元企業との関係を深くする。
浜松に好例がある。浜松地域は人口は約100万人であり、自動車関連産業を始めとして多様な製造業が発達し、市内には5,000を超える中小の製造業企業がある。大学技術の販売マーケットとして有望である。市内にある静岡大学工学部は80年を超える歴史の中で地元に優秀な人材を輩出し、浜松で企業を経営している人が多い。また、地元の企業との共同研究が進み、また頻繁に技術相談を受けている。
このような環境の中で、静岡大学工学部では、10年ほど前からベテラン技術者など10名を雇用して、地元や東京で技術発表会を開き、大学の持つ技術のセールスを行っている。成果が上がるのは、これからだ。
B地方自治体が技術移転を仲介する。
神奈川県・川崎市が、最も活発である。人口は140万人であって、製鉄、化学、機械、電機等の巨大工場が立地していたが、20年ほど前から、多くの重化学工場が縮小されたり、閉鎖されたりした。
それに変わって、東芝、富士通、NEC等の電子工業の企業が、工場を拡大し、また研究部門を充実した。中堅企業研究所を含めると、研究機関数は225に達した。
また、周辺には、専門的技能を身につけた3,800社の中堅・中小企業が集積し、理工学部を持つ大学は27校もある。
川崎市は、1988年に、大学・企業間の技術交流財団を創った。第1の仕事は中小企業技術の大学への売り込みである。例えば、財団の職員は、ある大学が新型の研究設備を必要としているという情報をつかむと、その製造可能な技術を持つ地元中小企業に知らせる。新型の研究設備の生産には高度な特殊技能を必要とする場合が多いので、中小企業が活躍できる。高度な製品を生産したという実績によって、その中小企業の顧客が増える。第2の仕事は、大企業の休眠特許を中小企業が利用できるようにすることだ。大企業は、膨大な数の特許を所有しているが、特許を製品化した時、販売額が小さいと予測されれば、その特許はずっと使われない。財団は休眠特許を中小企業に紹介している。
財団には、経験が豊富な職員がおり、大学、研究所、中小企業を絶えず訪問して、大学の研究内容と、中小企業の技術力を把握して、両者を結び付けている。昨年1年間で17件(2006年からでは約60件)の結び付けに成功している。
C大学がベンチャー企業をつくる。
大学内の技術を使ったベンチャー企業は、最近10年間で1,800社が創業され、約2万人の雇用を生んだ。バイオとITソフト関連企業が60%を占め、東京大学、早稲田大学、大阪大学、京都大学、慶応大学等、一流校から多くのベンチャー企業が現れた。東京大学からは、123社のベンチャー企業が生まれた。しかし、大学ベンチャー企業では、大学教授やその奥さんが経営者に就任して、経営的に失敗する場合が少なくない。経営能力が問題である。
3 大学からの技術移転の問題点
日本の大学における最大の問題は、大学院博士課程への進学者が少ないことだ。日本の企業はいろいろな部署にローテーションさせて、従業員を育てており、技術者は、研究所、工場現場、設計、時には販売部門を経験することによって、総合的な技術的判断を下せる人材に成長する。原理的な研究が学者の分野だ。
学生は企業に魅力を感じている。企業では、応用的研究の成果が製品になるから、達成感を得られ、また学者により生涯所得が多い。大学院は進学希望者を企業に奪われ、最近では、主として留学生に依存して成り立っている。
大学の研究者は、探求心によって研究内容を決めており、その研究結果がどのような製品開発に結びつくかについて関心がない。また、研究分野が細分化してきており、他の研究分野の成果を結合できない視野の狭い研究者が増えている。一方、中小企業は、最新情報を入手できない上に、研究開発を進める経営的余力がない。可能なら大学技術を利用したいと思っているが、どの大学がどのような技術を開発したかを知らない。
大学と企業との技術交流を深めるためには、大学が所有する技術と、それを必要とする企業を発見する能力が必要である。残念ながら現在そういう能力を持った人材が不足している。人材育成が急務である。
そういう人材が育ってくると、中国、韓国、日本で、大学と企業が技術を交流する国際的市場が成長するだろう。
財団法人静岡総合研究機構理事長 竹内宏 発表レポート
|